<サーカス学校>
カンボジアには、国立のサーカス学校と、NGO組織のサーカス学校とがあります。国立のサーカス学校は、プノンペンの都心部から車で1時間ほど、でこぼこ道を揺られて行った郊外にあります。もとは、内戦後にベトナム政府がプノンペンの都心部に建設し、許可なしには売却できない施設として定められていたそうですが、カンボジア政府は後に売却。現在の郊外に建て直しましたが、あまりに不便な場所なので、通える生徒たちは限られてしまい、残念ながら生徒たちの数は多くありません。
(カンボジア国立サーカス学校)
NGOがやっているサーカス学校は、バッタンバンというカンボジア第二の都市と呼ばれるところにある、Phare Ponleu Selpak(ファー・ポンルー・セルパク。通称PPS)です。PPSは、1986年にタイ国境の難民キャンプで、あるフランス人女性が絵画を教え始めたのが始まりです。後に、PPSの創設者となるメンバーたちも、彼女に絵画を教わっていました。1992年に彼らはカンボジアのバッタンバンに戻り、社会活動、文化活動を通して、カンボジア人としてのアイデンティティを、人々に取り戻してもらおうと、PPSを設立しました。
<PPSについて>
内戦後、多くの家族が難民キャンプから故郷に戻りましたが、生活は困窮を極めました。PPSは、まずその活動を、アンチャン村で、親に見捨てられてしまったこどもたちに、焦点をあてました。社会的、教育的な活動は、コミュニティのすべてのこどもたちを対象とし、自立への道を支援しました。当初は絵画学校だけだったのが、美術学校ができ、サーカス学校ができ、幼稚園から高校までの公立学校もできました。
(PPSサーカス学校の練習風景)
PPSの活動の中でも、主軸になっているのが、サーカス学校の活動です。サーカス学校は、1998年に、非常に厳しい状況の中で始まりました。アンチャン村だけでなく、カンボジアの多くの地域で、若者たちは取り残されていました。路上では、暴行やドラッグなど、青少年による犯罪が横行し、若者たちの将来は閉ざされていました。PPSでは、こうした危険性の高い若者たちの行動を何とかしようと、創設者のひとり、コーン・デット氏(Khuon Det)が、武術や体操を指導する新しい活動を始め、それがサーカス学校へと発展しました。コーン・デット氏の、PPSでの活動は、2004年に、カンボジア政府から、ワーキング・メダルを授与。2006年には、ゴールド・メダルを授与されています。
コーン・デット氏は、ロイヤル・ユニバーシティで、サーカスのワークショップを受講し、ここから彼のサーカスへの冒険が始まりました。サーカステントを竹で作り、30名ほどのこどもたちや、10代の若者たちが集まりました。コーン・デット氏が、まずしなければならなかったのは、朝食の用意でした。食べるものにも事欠いていた両親たちは、こどもたちの教育にまで関心がむきませんので、いかに教育が大事かという、両親たちへの説得にも時間をかけました。中には、女の子がサーカスをしたら、こどもが産めなくなると案ずる母親もいたそうです。
(PPSサーカス学校の練習風景)
現在では、130名ほどが毎日訓練を受けています。PPSの授業料は無料なので、出入りが自由な状況になっていますが、不向きな子には、音楽や美術もやってみるように促したりもしています。
サーカス学校は、今や卒業生によるサーカス作品をいくつか持ち、ヨーロッパやアフリカ、アジアでの公演を行っています。ACCやサーカス村協会でも、2007年に「Holiday Ban Touy Ban Tom / ストリートギャングたちの休日Holiday」、2008年には「4 to 5」、2009年には「Eclipse」と「Phum Style」、2012年には「Sokha / ある少女の物語」を日本に紹介しています。これらの作品は、サーカス・アーティストだけでなく、PPSの音楽学校で学んだミュージシャンたちによる、カンボジアの伝統音楽や、現代風にアレンジした音楽の生演奏、美術学校で学んだアーティストたちがつくった舞台美術とともに演じられています。
PPSでは、文化的教育を通じて、若者たちの自立の道を探ることに加え、クメール・ルージュの虐殺という内戦によるトラウマを乗り越えるという努力も成されています。どの作品も、カンボジアの若者たちの現状から、カンボジアが抱える問題と希望を描いていますので、サーカス技を羅列したサーカスショーではなく、物語をサーカス技で紡いでいくという手法をとっています。
(PPSのサーカス学校校舎)
「Sokha / ある少女の物語」は、ソカというひとりの少女を通じて、内戦という悲劇と、若者に託した未来が、PPS代表であり、演出家でもある、コーン・デット氏の実体験をもとに、描かれています。彼が自分の実体験を作品にするのは、これが初めてです。この作品は、2011年に、カンボジア文化省から最優秀賞を授与されました。
<教育的なサーカスから、大道芝居まで>
2002年から、若い演劇グループは、カンボジア全土をまわり、演劇とサーカスをミックスさせた公演を行っています。村から村へ、かなり遠方へも遠征する彼らの最大の課題は、地雷、エイズ、人権、人身売買などについての啓蒙活動です。かつては、彼ら自身が路上生活をおくり、自身を軽んじていたわけですが、現在は俳優として、カンボジアの復興に力を注いでいます。
<その他の活動>
絵画学校は、約80名の生徒がおり、アーティストとなって、カンボジア全土のギャラリーやレストラン、文化センターなどで個展を行っています。
音楽学校は、約60名の生徒がおり、伝統的で新聖なカンボジアの音楽を学んでいます。カンボジアの伝統音楽には譜面がありませんので、すべて耳で覚えるしかありません。生徒たちは、伝統を継承するとともに、新しいリズムや音を、伝統的な音楽に融合させたりすることで、新たな発見をしています。
図書館は誰もが活用でき、様々な書籍に触れることができます。図書館員たちは、人形劇や読み聞かせ、手遊びなどのメソッドも使っています。
PPSは、幼稚園、小学校、中学校、高等学校という公立学校内容の指導もしており、1000名以上の生徒たちが登録しています。他の授業同様、無料で行われており、制服や教科書、ノート、文房具も、すべて無料で配布されます。
<若者の家>
PPSには、2002年に建てられた、“若者の家”があります。この若者の家では、タイ国境から戻ってはきたものの、行くところがない者、人身売買の被害にあった者、孤児や虐待を受けていた者など、約30名がここで生活をしています。 生活に最低限必要なものだけでなく、心理的なケアも受けています。こういうこどもたちにとって、自分で選択して学校に行くというのは、大きな勇気を必要とします。この担当チームは、可能な限り、“無気力”から彼らを救い、人とのコミュニケーションがとれるように、心を砕いています。彼らは全員が、芸術的な活動に参加しています。
<サーカス・フェスティバル>
サーカスという文化や、サーカスを通じての交流を広げようと、PPSでは、2003年から、ティニ・ティノ国際サーカス・フェスティバルを開催しています。
(ティニ・ティノにて。2009年)
ヨーロッパやアメリカ、アジア各国からサーカス・アーティストが集まり、サーカス村協会からも、2007年から参加しており、沢入国際サーカス学校の生徒や、クラウンのふくろこうじさんに協力していただきました。2011年以降、残念ながら資金の問題で、開催は見送られています。
(ティニ・ティノにて。2010年)
<シェムリアップの常設テント>
シェムリアップは、アンコール・ワット、アンコール・トムなどを含むアンコール遺跡群の観光拠点となっており、日本人観光客も多く訪れています。PPSでは、これまでも、シェムリアップでサーカス公演をイベントとして行ってきていましたが、常設のサーカステントを持ち、公演を常時行いたいと思いつづけていました。400席のテントも5月14日に建ち、その夢が実現しつつあります。
どこの国のサーカス学校も、卒業生の行く末には、頭を悩ませているようですが、PPSも同様で、卒業生たちや、海外には行けない生徒たちにも、多くの機会を与えられるようにしたいという計画が、このシェムリアップのテント公演の理由のひとつでもあるようです。
現在は、“Tchamlaek”という、卒業生による新しい作品と、2009年に座・高円寺で公演を行った“Eclipse”が、毎日日替わりで行われています。下記サイトで(英語)、公演の詳細が見られますので、アンコール・ワットに行く機会がありましたら、是非シェムリアップのPPSサーカステントをのぞいてみてください。(http://siemreapevents.wix.com/phare)そして、是非バッタンバンのPPSにも、立ち寄ってみてください。日本のODAによる道路の整備も進み、シェムリアップからバスで3時間ぐらいです。シェムリアップは立派な観光地なので、ある意味別世界です。プノンペンもだいぶ都市化が進んでいます。しかし、バッタンバンは、どこか懐かしい気持ちになる街です。
(オークションのポスター)
2011年3月11日の東日本大震災の際には、PPSの美術学校の責任者の働きかけで、絵画作品のオークションを開催し、$1,465を、在プノンペン日本大使館を通じ、日本赤十字社に寄付してくれたことを、追記しておきます。このオークションには、40人以上のアーティストが作品を提供し、サーカス・アーティストとミュージシャンも参加することでオークションを盛り上げてくれたそうです。オークションの開催場所を無償で提供してくれたのは、プノンペンのフランス文化センターで、バッタンバンからのアーティストたちの交通費や宿泊費、食事代なども負担してくれたそうです。